2008年11月2日日曜日

my first sorrow

生まれて初めて悲しいと思ったのはいつだったかというと。


幼稚園のころ、同じ団地に住む年上(どのくらい歳が離れてたかは憶えてない)の女の子(苗字が緑川だったか名前がミドリだったか緑色の服を着てたのか、とにかく何か緑に関連してたのだけは憶えてる)のところに遊びにいったまま日が暮れても帰ろうとせず、野次馬のとりまくなかビービー泣き叫びながら母親に引き剥がされて物置に閉じ込められたことがある。

でもこれは憎いとか悔しいという感情の最古の記憶で、悲しいというのとは全然ちがう。なぜそんなに帰りたくなかったのか、みどりチャンとどんな遊びをしたのかも憶えていない。


手塚アニメ『ふしぎなメルモ』でメルモが蛙かなにかの姿にされた弟(トビオ?)を元の姿に戻してやれないまま別れるシーンを観たときだろうか。

でもこれは「メルモちゃん、かわいそう」であって「悲しい」とはちょっとちがうな。メルモの悲しげな顔を見ているうちにこっちの顔もゆがんでくるという、あくまで模倣の段階にすぎない。


初めて「悲しい」と思ったのは、アンデルセンの「にんぎょひめ」を読んだときだ。絵本ではなかった。裕福な親戚の家で子供向けに書かれたものを読んだのかもしれない。

ラストシーンよりも、人魚姫が王子(だったっけ?)に会えるのと引き換えに口をきけなくされてしまう、口のきけないままで王子と対面する、その状況設定がとても悲しかったのを憶えている。

俺自身が口数の少ない子供だったからだろうか。好きなひとの前で好きと言えない、思いのたけを吐き出すことができない、そんな人魚姫になんの抵抗もなく感情移入していたのだった。

苦しいけれども痛いわけではない。怖いわけでもない。ワンワン泣けば消えるようなものではない。何か切なく甘美なものすら伴う、悲しいとはそういうものであると、奥ゆきや陰影や質感をそなえて心の中にしばし居座るものであると、そのとき知ったのだと思う。

だから人魚姫がなぜ身を投げてしまうのか、物語としてはキーになる部分のはずなのだが、その経緯のほうはよく憶えていない。むしろ悲しみは生きるための力にすらなると、子供心にも無意識のうちに感じていたのではないか。子供にしては倒錯しすぎかもしれないが。


ちなみに最初にエロスを感じたのはメルモが青い(ほうだっけ?)キャンディを飲んで赤ん坊に戻っていってブカブカの服から裸でニョコニョコ這い出すシーン。最初に勃起したのはやっぱり手塚アニメの『クレオパトラ』だったと思う。

もうそろそろ寝る。